贈り物を贈り続ける編集者
井之上達矢さん、34歳。
中央公論新社で編集者として働く傍ら、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで編集・ライティングの講義を担当する非常勤講師。
井之上先生を一言で表すと「贈り物を贈り続ける人」と言えるだろう。
井之上達矢さん
34年間のライフストーリー
○小学校〜大学時代
中学受験で開成中学に入学した井之上先生。中学入学後は、ぷつんと糸がきれたように遊びにはしったという。そのまま開成高校に進学し、まるまる6年間自由な時間を過ごす。東大志望だった井之上先生だが、2浪の後、早稲田大学に進学。
○大学進学後〜社会人
中央公論新社に入社後、数々の編集経験を積み、一流著名人との企画に携わるようになる。
三木谷浩史氏×勝間和代氏の対談や茂木健一郎氏×津田大介氏の対談、米長邦雄氏の『われ敗れたり』などをはじめとして、第一線で活躍する人の記事や書籍編集を担当。仕事漬けの毎日を経るうちに活動の幅はますます広がっているそうだ。現在は現役の編集者として働きながら、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで非常勤講師を務めている。
人にイタコ (注1) するには何が必要なのか?
―編集者って、作家さんの書いた文章を編集したり、インタビューをして記事を書くのがお仕事ですよね。
編集作業やインタビュー記事を作る中での「井之上先生らしさ」って何かありますでしょうか?
井之上
「うーん、自分らしさですか。難しいですねえ。僕が、ここは他の編集者さんと比べて、技術的な観点から「ウリ」になっていると思うものということであれば、作家さんやインタビュー相手の方に、より深く『イタコ』できるということでしょうか。例えば、インタビューをしているときに、ああ、このくだりはノリノリで話しているなとか、ちょっと飽きてるなとか、この人は今精神的に厳しい状態にあるんだなということを読み取るわけです。そして、読者と発言者と発信媒体にとって、もっとも必要とされている記事を作り上げていく。
単に相手の発言をそのまま文章に書き起こしたとしても、そのあたりの「空気」を描くことができないと、結局、発言者の真意は伝わらないし、誤解を呼ぶ記事になってしまって、みんな不幸になると思うんですよね。
人の発する言葉には、文字通りの意味だけでなくて、さまざまな「声としてこの世には出てきていない言葉」もまとわりついている。それをまずは丁寧にすべて拾い、記事化するときには取捨選択をするわけです。
これらはすべてのライターや編集者がやっていることなんですが、どの程度の精度で「この世に出てきていない言葉を拾えているのか」には差が出てくる。 自分は、この点で多少の競争力があるのかなと思って仕事しています。お酒の場で著者に気を遣うのとかは苦手なので。(笑)」
―なぜそこまでイタコになれるのですか?
井之上
「うーん、ある意味で「仕事」と割り切ってやっているからですかね。こういう言い方をすると露悪的な感じがしてしまうので、表現が難しいのですが、うまくまとめてください。(笑)
作家さんって、人間の一番素晴らしい部分を見つけ出す一方で、一番醜い部分も正面から見て表現していく職業だと思うんです。そのなかでも一流の人ともなると、もう人間のとんでもなく「黒い部分」まで見えてしまっている人がほんとうに多いんですね。
編集者は、そういう作家さんにイタコして、作家さんの見えている世界をできるだけ理解する。そしてどうすれば、世間にその世界を伝えることができるのかを考える職業です。だからまあ、そうこうするうちに自分も、蝕まれていくんですよ(笑)。気をつけないと、作家さんの毒気にあてられて、精神的にバランスを崩したり、作家さんとおかしな相互依存の関係になることもありえます。
もちろん、そうやって作家とドロドロの関係を築きながら、素晴らしい作品を世の中に送り出すという編集手法もあるとは思います。でも、僕はそういうやり方はできないし、ちょっと違うなと思った。
そこで僕は「これはプロとしてお金をもらう仕事だ」と割り切ったんです。仕事とプライベートをしっかりと線引きする。打ち合わせをしていた喫茶店を一歩出たら、気持ちをパッと切り替える。でも、その「プロとしての時間」は徹底的にグロテスクな世界に付き合いますという感覚です。」
謝罪から始める講義
「本当に申し訳ない。僕がこれから一学期間授業をするなかで、一番勉強になるのはみなさんの誰でもなく、講師である「私」です。」
―今期最初の授業時、井之上先生は履修選抜に合格した約15人の生徒を前に、こう口火を切った。
井之上
「僕は必ず、学期の最初にこの言葉を言ってから、授業をはじめるようにしているんです。
授業って教師から生徒に考え方やスキルと授けるものだから、一般的に「勉強になるのは生徒だ」と思われているじゃないですか。でも、一番勉強になるのは教師なんですよ、ほんとうに申し訳ない事に。
授業というのは、教師から学生へ「贈り物」を受け渡す行為ですよね。実はこのとき、本当に大切なものを手にするのは、「贈った人」なんです。だから、「授業」というのは、その構造上、必ず「一番大切なものを受け取る」のは教師ということになっているんですよ。
その一番大切なものというのは、「知識」かもしれないし、「新しい考え方」かもしれないし、「探究する意欲」かもしれない。でも授業を通して、それを手に入れるのは、学生ではなくて、教師なんです。」
発信をしてこそ「学び」があり得る
田中
「どういうことでしょう?」
井之上
「わかりにくくてすみません。僕も「自分の勘がそう告げている」というだけで、論理的に積み上がっているわけではないんです。
とにかく人間って、「贈り物を人から貰って、贈り物を他の人に贈って、また他の人から貰って……」ということをずっとくり返している生きものだと思うんです。そして、その「贈り/贈られ」という運動の中に、『生きる活力』のようなものが芽生えてくると捉えています。
僕が授業でも仕事でも、日常生活でもとにかく気を付けていることは、この「贈り/贈られ」という運動をできるだけ活発化させるということなんです。
だから僕は、学生のみなさんにたくさんの課題を提出してもらいます。これは学生から講師である僕への「贈り物」ですよね。それに対して、僕はできるだけ良い「贈り物」をお返ししようと努力する。僕からの贈り物に力があれば、また学生さんから新しい贈り物が送られてくる(実際に毎年、授業の枠を超えてたくさんの文章作品が送られてきて、とても嬉しく思っています)。こうして「贈り/贈られ」の状況を、ある意味では無理やり作り出すわけです。
今の世の中は、油断をすると、「貰う」だけの人が多くなってしまうと思うんですね。ITインフラの発達によって、「贈る」力のある人は、すごく効率よくたくさんの人に「贈れる」わけです。一方、「貰いたい」と思う人は、すごく簡単にさまざまな物を「貰う」ことができる。
でもこれは危険だと思うんです。
例えばtwitterなどを見ていてもそう思います。説得力もあって、専門性に富んだ有意義なツイートをする、いわゆる「すごい人」がたくさんいます。そういう人の知識や物の考え方の片鱗にタダで触れることができるのがtwitterの良いところです。それはほんとうに素晴らしい。でもその一方で、そういう「興味深いツイート」が簡単に手に入るようになればなるほど、それらに触れているだけで満足し、自分が何か大切なものを得ているような気になっている人が増えているのではないでしょうか。また、そういう「すごい人」と簡単にアクセスできるようになると、無意識的に「すごい人」に抑圧されてしまうこともあると思うんです。
自分ごときが本気で語らなくても、、語られるべきことは、「すごい人」たちが、より深く、より明快に語ってくれるはずさと考えてしまう。もちろんそれでつぶやかなくなるということではなくて、勝手に役割分担のようなことをして、「すごい人」が世界を立ち上げてくれるから、「すごくない自分」はそれに対する感想だけを書いておけばいいやとか考えてしまう。これはとても危険なことだと思います。
そして授業というのは、そうした「すごい人」と「すごい人の発信したものを受け取るすごくない自分」という状況を作りやすい場です。
でもありがたいことにせっかく「講師」の役割をさせていただくのだから、「授業」という場をそういう構造から解放させたいなと。とにかくその場をやり過ごすことだけを考えれば、「読者に緊張感を与える文章を作りたい場合の副詞の位置は……」「読者を飽きさせずに込み入った論理を読ませる場合は、句読点の割合を……」といったノウハウを一方的に教えたほうがラクです。でもそれでは、勉強になっているのは僕だけで(自分で培ったスキルを再確認しながらさらに深めていくことができるので、これは本当に勉強になるんです)、受け取り手である学生は、ほとんど勉強にならないと思うんです(なるほど、これは良い話を聞いたと思っても、三時間もすれば忘れてしまうでしょう)。
「自分は、他人に贈りものとして贈れるものなんて何も持っていない」と思ってしまう人を、自信を持って贈り物を「贈る」ことができるようにする。それが、講師というか、上の立場に立った人間の役割だと考えているんですよ。その「贈る」ということにしか「学び」の可能性はないと思うので。」
人間が生きる意味とは、「贈り物の受け渡し」である。
―「おせっかい」ということを大事にされているそうですが……
井之上
「そうなんですよ。
とにかく、人間が生きている意味は、この「贈り/贈られ」を繰り返すことがすべてだと思っています。でも、そこには、「貰った相手が、また別の人に贈り物を贈りやすくなるような上手な贈り方」と、「贈ったはいいけれど、なんだか相手に自信を無くさせてしまって、次がつながらない下手な贈り方」があると思うんです。だから、「贈ればいい」というものではないんですね。相手がまた他の誰かに渡しやすいように、贈りものを贈る。
だから、授業中の話も「僕もわかんないんだよねー」とか、ある種曖昧にしています。まあ、実はほんとうにわからないことばかりですが、わかっているのにわからないふりをしているということにしておいてください(笑)。まあ、どちらにせよ、とにかく曖昧な話にしておけば、受け取り手に考える余地が生まれますよね! そうしておくと、もしその人が「わかった!」とひらめけば、きっと誰かに「自分の言葉」としてそのことを伝える。それはまさに誰かに贈り物を贈ったということだと思うんです。
さらに言うと、この贈り物を贈るというのは、それが「おせっかいである」ということを自覚したうえで行なうのが大事だと思っているんです。
「贈り物を贈る」ということもおせっかいだし、贈り物を贈った後の相手の行動を考えることも「おせっかい」なんです。
これを「おせっかい」だと感じないで、自分は偉いことをしているんだと思ってやっていると、それはすごく間違った行動になる気がします。ですから、自分のしていることは「おせっかい」なんだと自覚したうえで、もしよかったら受け取ってねと贈り物を贈る。しかもそれがつながっていくように。まあ、なかなか難しいわけですが、僕の人生のテーマです。」
―奥さまとの愛情が深いなあと思ったのですが、ご家族とはどのようなご関係なのでしょう。
井之上
「ひどい夫ですね。まず家にほとんどいない。たとえ家にいたとしてもソファーの端っこに座ってずっとパソコンをいじってる(笑)。ホントに僕、家のこと何にもやらないんですよ。先日、妻が僕の座っているソファーの下を掃除しようとしていたとき、僕はパソコンとにらめっこして編集作業をしていたので全然気付かなかったんです。妻に、掃除機で足をバンバン轢かれてはじめて気付く。「あ、ごめんごめん!」みたいなね。そんなレベルなんです(笑)。
もちろんそこでこっぴどく怒られるんだけど、でも、この人はこういう人だって腹をくくってくれているんです。それはすごくありがたい。こんな夫でも子供が育ち、なんとか家が回っているのは、やはり妻のおかげですよね。だからすごく感謝しています。」
プライドをもち、人間らしく「働く」人を一人でも増やしたい
―編集者としてお仕事する中で、どのようなことを目指していますか?
井之上
「さっきの「贈り/贈られ」の話とつながりますが、『働く』ことって、すごく人間らしくて大事なことだと思っているんです。
「働く」ということは、とにかく社会に何かを「贈る」ことになるわけです。それは自分のスキルかもしれないし、エネルギーかもしれないし、時間かもしれない。でもとにかくそれらを絞り出して、そして妻(夫)や子供たちなど家族の助けも受けて、社会に何かを贈る。そしてその見返りとして、食べるためのお金を手に入れて生きていく。それはいろいろ嫌なこともしなくてはいけない場面もあるわけですけど、それをすることで見えてくるものは、かなり大切なことだと思っています。それこそ人間の美しい部分にも、闇の部分にも触れられる気がします。
ここまで文明が発達すると、人類にとって本当に必要な仕事などほとんどなくて、ほんの一部の能力のすごく高い人だけが働いて、あとはずっと遊んでいてもらったほうが、社会を運営するにあたって効率がいいという話もありますよね。数十年単位のタイムスパンで考えた場合、本当に効率が良くなるかどうかは僕にはわかりません。でも少なくとも僕の編集者としての勘では、そういう社会になると「おもしろいコンテンツ」が減ると思っている。
自動的に政府から生活費をもらえる社会の中で、みんながコンテンツを「遊び」で作るよりも、「食べるために書く」「書かなければ生きていけない」という作家さんがしのぎを削り、その中で特別な才能を持った人が奇跡を起こすという状況のほうが、「おもしろいコンテンツ」ができる可能性が高い。
まあ、このような考え方をしてしまうのは、もしかしたら編集者としての「業」かもしれません。
でも、僕はそう考えている。だから少なくとも自分は編集者として「食べれる作家さん」を一人でも増やしたい。
そのためには、プロの編集者として、できるかぎりのことをしたいと考えています。でもその「できること」って結局、誰か一流の作家に「イタコ」して、そうしたことで得た知見を、若い作家さんに伝えることしかないんですよね。僕に贈られた贈り物を、また別の誰かに贈る。これしかないんですよ。」
井之上達矢さん
Twitter:@ tatsuya0812
注1 イタコには霊的な力を持つとされる人もいるが、実際の口寄せは心理カウンセラー的な面も大きい。その際クライアントの心情を読み取る力(一種のコールドリーディング)は必須であるが、本来は死者あるいは祖霊と生きている者の交感の際の仲介者として、氏子の寄り合い、祭りなどに呼ばれて死者や祖霊の言葉を伝える者だったらしい。この場合、相手の心情を読みみとることができる人という意で使われている。




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